僕は青葉台センターにある会社の寮にしばらく泊まることになっていた。明日からセンターでの仕事が始まる・・・そう思うと非常に不安になってきた。だから、その日僕は青葉台で働くにあたって、どういうふうにしたらよいのか、マスターと話がしたいと思った。
青葉台と本郷は1時間以上電車でかかるが、僕はマスターとどうしても話をしたいと思った。気がつくと田園都市線から新玉川線、半蔵門線で大手町へ行って、丸の内線で本郷に言った。
そして、僕が上司と話したこと、青葉台にいくと自分から言ったことをマスターに聞いてもらったのだ。そして、そんな僕はマスターにこれから仕事でおそらく必要になる「交渉力」をデンキプランにねだった。マスターはそんな僕に交渉力の話をたくさんしてくれた。
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腕時計を見ると、もう、11時を回っていた。電車の外を見ると、もうすぐ青葉台の駅である。駅からはタクシーで10分くらいだから、風呂に入っても12時には寝ることができるはずである。
僕は本郷から電車に乗ったあと、マスターから説明を受けた交渉力の話を何回も思い出していた。
交渉を成功させるには、まず、相手の考えを知ること、そして、相手が何を主張するかを予想し、それに対してこちらが反論していく・・・リバースという応酬をすることが必要だとマスターは言った。
確かに、マスターの言うことは正しいのかも知れない。マスターは、交渉にはシナリオが必要と言った。交渉のシナリオは、「説得・交渉を制御し,自分の思う方向に誘導するための台本である」と言っていた。そして、紙をくれた。そこには、こんなことが書いてあった。
交渉シナリオに書くもの
<相手から要求,依頼される場合>
(1)相手の主張,考え,スタンスとそれに対する当方のリバース(反論)
(2)上記(1)に対する相手のさらなるリバース,言い訳(以降,主張とリバースを予想できるだけ記述)
<当方から要求,依頼する場合>
(3)当方の主張や考え,スタンスに対する相手の予想リバースや予想言い訳
(4)上記(2)に対する相手のさらなるリバース,言い訳(以降,主張とリバースを予想できるだけ記述) |
マスターは、交渉シナリオが必要なのは、3つの理由がある。それは、「①交渉を有利に進めるため」、「②感情的になって支離滅裂にならないため」、「③適切に情報収集するため」だという。そこが非常に大事だと僕は思った。頭の中で、先のマスターの言葉がまだリフレインしていた。
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「高田さん、いいか、今説明したとおりだよ。交渉にはシナリオがいる」
「シナリオ・・・ですか?」
「そう、シナリオ。これには3つの理由がある。いいかい、今から紙に書くよ」
そう言って、マスターは店にあるチラシの裏に3色ボールペンを使って書き始めた。
①交渉を有利に進めるため
②感情的になって支離滅裂にならないため
③適切に情報収集するため
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「①番目は、交渉を有利に進めるためだ。いいかい、通常,上司や先輩,客先といった立場の上の人と部下,後輩,業者などの「立場が下の人が,自然体で交渉すれば,ほとんどの場合,立場の上の人が勝つ」
「それは、そうかも知れませんね」
「立場が下の人が,上の人に勝つには,相応の準備をして,これなら勝てるというところまで机上でシミュレーションを行う必要があるんだ。一般に,人は準備していなければ,とっさに相手の主張にうまくリバースなどできない」
「なるほど、そうでしょうね」
「だから事前に机上で交渉の流れを予想し,必ず勝てる流れを作るんだ。僕は将棋が好きだけど、こういうのは詰め将棋に似てる。
「そうですね」
僕もマスターと同様に将棋は好きだ。相手の指し手を予想しながら,相手の王を詰める道筋を数手先まで完全に予想するのは面白い。
「2番目は、感情的になって支離滅裂にならないためだよ。交渉時に準備なく臨むと,特に経験や知識のない人は,相手の主張に腹をたてたり,知識がないことを隠すために,思いもよらない会話をしてしまうものだ。」
「なるほど・・・では、3つ目は?」
「3つ目は、適切に情報収集をするためだ。シナリオを作るプロセスは情報収集をするための項目の洗い出しができる。たとえば,相手が法律面を根拠に主張してくる場合は,リバースするためにも法律の知識,判例などが必要だ。
シナリオを交渉全体を制御する台本だから。ここで出て来る知識セット,事例などは漏れなく事前に調べて詳しくなっておく必要がある。」
「分かりました」
僕は感謝の言葉を述べた。マスターは僕の顔を見てしばらく黙っていたが、「もう一つ話をしたい」と言った。
「どんな話でしょうか」
「そうだな。システム開発プロジェクトを管理するには、一般的管理能力に加え、システム開発特有のノウハウが必要だ。このノウハウは経験が長ければ習得できるものではなく、どれだけ多くの課題を解決したかによって得られるものだ。
だから年長者だからといっても、それだけで上手くシステムプロジェクトを管理できるわけではない・・システム開発は非常に気を使う難しい作業の連続である。俺はそう思っている。
これを成功させるためには、年齢に関係なく、経験のある人材が問題を対処することが必要だ。そのような人材がいない場合、柔軟に応援依頼など、サポートを受け入れることが必要になる。
しかし、これを嫌う管理者も多い。他人に自分の組織に介入されることを嫌う「強い縄ばり意識」をもつ人間はプロジェクトの課題に適切に対応できないものだ」
マスターは、さらに話しを続けることになった。
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ある男の話をしよう。彼の名前は武田としよう。武田があるシステム共同化を担当したときの話だ。この共同化プロジェクトを担当した当時、武田はシステム開発現場ではなく、共同化システムプロジェクトの幹事会社A社で事務局を担当していた。
事務局とは全体を統括する役割で、複数のプロジェクトの管理スタッフとして、参加企業との交渉、ベンダとの契約管理、全体進捗管理を行う役割だ。
この共同化プロジェクトは、A社のトップが急遽決定したもので、現場の担当者には直前まで知らされていなかった。このため、現場の担当者は戸惑い、共同化に必要な作業が分からず、プロジェクトの立ち上げは遅れぎみだったんだ。
このような状況で、武田に下されたミッションは、早急に各プロジェクトを立ち上げ、作業を開始できるようにすることだった。
システム共同化のようにトップダウンで稼働時期が決まるような案件は、開発側にとっては大きな負担になる。社内だけで完結するシステム開発と違い、もし稼動日が遅れるようなことがあれば、作業遅れを出した企業の責任はもちろん、他の参加企業にも迷惑をかけることになる。
このため、武田は全力でプロジェクトを軌道に乗せる必要があった。
共同化の作業が開始され、いくつかあるプロジェクトが立ち上がったが、A社が担当するサブプロジェクトの進捗だけ遅れていた。実施すべき作業内容も、作業量の見積もりも行えていなかった。
実は、このサブプロジェクトはA社の情報システム部所管システムではなく、利用部門が所管するものであった。この組織の管理者だったのが大田という男だ。大田は武田よりも5歳年上で課長クラス。かつて情報システム部に在籍していたが、10年以上前に現所属に移っていた。
大田の組織は、いままで短期間で大規模な開発作業を経験したことはなく、ノウハウが不足していた。だから、武田は当初からこのサブプロジェクトを重点管理する必要があると思っていた。
でも、この太田の組織は武田が所属する情報システム部とは別の部門の傘下組織だったため、非常にやりにくい状況だったんだ。
武田は、しばらく様子をみていたが、進捗遅れは一向に改善しない。そこで、これを懸念した情報システム部長が、大田の上司である部長と話しをして、武田を現場に派遣した。武田は、太田と対決した。
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「武田です。よろしくお願いします。」
武田は丁寧に太田の席の前に行って頭を下げたんだ。太田は武田を面倒そうに見上げ、椅子から立ち上がりもせず、憎憎しげに言った。
「うちの部長から聞いてはいるけど・・・君は、誰?何しにきたの?」
武田はこんな失礼な態度の太田を気にしなかった。
「共同化にあたり、こちらの業務システムを勉強させていただきたいと思いまして。作業の見積もりが進んでいないようなので、サポートできればと思っています。」
太田は苦笑した。
「君がどういう仕事をしてきたか知らないけど・・・このシステムを長年担当してきた我々でも今回の共同化でどのような作業をすればよいのかよく分からないし、見積もりに苦労しているんだ。部外者の君に何ができるんだ?」
***
「まあ、こんな会話があったんだな。」
「この2人はどうなったのでしょうか?」
僕はどうしても聞きたかった。この状況は、僕が今からいく事務センターでの事務課長との関係と一緒ではないかと、強く思ったからだ。もしかすると、マスターは、それを考えてこの話をしたのかも知れない。いや、マスターのことだから、確実にそうなのだろう。
「結局な、武田は1週間で大田の部下を指導し、作業内容と見積もりを完成させ、作業を軌道に乗せることができたんだ」
「凄いですね・・・でも、太田という人は?」
「駄目だな。消えたよ。次の異動で・・・太田のこのときの行動、態度には非常に落胆させられる・・・まあ、こういういい加減な奴が多いからな、日本には・・・会社が協力して問題を解決しなくてはならないのに、大田はそのことをまったく認識していなかった。作業も見積もりも大幅に遅延しているのに、あまり問題にしていない感じがしたな。太田の場合は・・・」
いつの間にか、マスターは感情移入して話している。この話もマスターの経験談なんだろうと、僕は思った。
「高田さん、人は人を攻撃する性質を持つ。この話の武田を、太田は余所者として扱い、同じプロジェクトを行っているという意識がなかったんだな。
本来、プロジェクトが遅れ解決策の糸口ができないなら、事務局から派遣された武田と相談でもして、武田に何ができるのかを理解すべきだろう? そうして進捗を巻き返すために積極的に活用すべきだろう?
でも、大田はあくまで武田を部外者として扱い、一緒に問題解決しようしなかったんだ。大田は、進捗遅れを取り戻すよりも、自分の縄張りを守りたいという意識が人物なんだ、ああ、馬鹿らしい男だ」
僕は黙って聞いていた。
「高田さん、誤解なきよう付け加えるが、僕はこの事例の大田という男の全て否定するつもりはないよ。縄張り意識をもたない人間などいない。自分の仕事に介入されるのは面白くないだろう。まして、武田は大田より経験年数、資格、役職も下だ。
大田にしてみれば、このような男が問題を解決するという発言をおこがましいと感じたに違いないんだ・・・でも、それはあくまで感情的な話だ。大田の責務はプロジェクトを成功させることであり、大田自身のプライドを守ることではないんだ。
進捗遅れを真摯受け止め、どうしたら成功に向けて動き出すかを武田とともに考える必要があったと思う・・・それには、自分の組織で解決できないことを明らかにし、応援を依頼すればばよいんだ。システム共同化など、だれも簡単にはできないのだから、恥ずかしくはないんだよ」
僕はじっくりこの話を聞いた。そしてこれから事務センターで働くことに関して、一つの大きなヒントをもらった気がした。そう思うと、先まで嫌だった事務センターへの常駐が、なんだかとても頑張れる気がしてきたのだった。(次回に続く)
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