僕の会社は銀座にある。でも、銀座は本社機能のうち、営業や企画部門だけで、もっと実務的な手続きを行うのは事務センターと呼ばれる組織である。
これは、横浜の青葉台という場所にあって、渋谷から紫の電車にのっていく。
銀座からだと黄色い地下鉄で青山一丁目か外苑前で乗り換えて1時間くらいのところにある。東急グループが山に家を建てた住宅地の街だ。
ここには、「こどもの国」という公園のような場所がある。
何でも、元は陸軍の弾薬貯蔵地だったらしい。ところどころに、地下倉庫のような仰々しいものが今も残っている。その隣を子供が楽しく遊んでいるのだから、少し変な感じがする。
終戦後、現在の天皇陛下が「子供の遊び場に」ということで恩賜ということになったらしい。
僕は今まで数回しか、事務センターにはいったことがないのだが、1回だけ中にはいったことがある。そのときに、一緒に行った事務センター勤務の同僚にこの話を聞いた。
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僕が行こうとしている事務センターというのは、この「こどもの国」の隣にある。青葉台の駅からバスで10分くらいのところにある。非常に緑の深いところだ。
今日からしばらく、豊洲の家からここまで遠距離通勤ということになる。とりあえず、2週間になるのか、もっと長くいるのか、それは今のところはまだ分からない。
とにかく、ここに来て、みんなと同じものを見て、感じなければ駄目なのだと思うようになってきた。まあ、何かはつかめるだろう・・・そう思うことで、自分の気持ちを鼓舞することが必要だと思った。
でも、僕は、ここに来ることは、本当は怖い気がしていた。いままで対立してきた人たちと一緒に仕事をしていくことができるのか、無視されるのかも知れないと強い不安を持っていた。
しかし、上司の園田に「行きたい」と啖呵を切った以上、どうしょうもないと思った。それで、昨日はマスターのところにいったのだった。
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昨日は、8時に銀座を出て本郷に行った。僕がいったとき店には誰もいなかったが、それから4時間後までやはり誰もこなかった。
本当にいつも、客がいないので、どうして倒産しないのだと思うが、そもそも、上海にいるオーナーの道楽でやっている店だから、あまり儲かる必要はないのだと思う。
店に入ったら、僕はマスターに、すぐに話をした。マスターは、僕が青葉台にいくことをニコニコしながら聞いていた。
話が終わると、ウイスキーを飲みながら言った。
「そうか、それはよいことだな。でも、歓迎されるかはまったく別問題だけど・・・」
「ですよね・・・結構、向こうにはきつく言ってきたから・・・・」
「そうだな。かなり嫌われていると思うぞ。最初は、誰も話をしてこないと思っておいた方がいいんじゃないの」
マスターは、楽しそうに言う。このあたりは本当に性格の嫌な感じが漂う。
「・・・なんか、やっぱり青葉にいくなんていわなきゃよかった」僕が落胆しているのを見て、マスターは少し真面目な顔になった。
「まあ、上手くやれば大丈夫だよ・・・よし、君が新しい仕事のフェーズに進んでいくことを祝して特別なメニューをお出ししたいな。何を出したらよいかな。欲しいメニューを言ってくれよ」
「実は、欲しいメニューがあるんです。」
「何かな?」マスターは僕を見て答えを促すような仕草をした。
「交渉です」
「あの交渉?」
「そう、あの交渉です」
「交渉だね、了解。交渉とはよいところに目をつけたな。これはどの会社でも必要な”どこでも通用するスキル”だからな」
マスターは今日は厨房に紙を捜しにいかず、僕の顔を見ながら、「交渉」、「交渉」と数回つぶやいた。マスターは交渉が好きなのかも知れない。
「ではまず最初に高田さんががどれくらい交渉の基礎力を持っているかを調べよう」マスターはこう言って、僕の顔を見た。
僕はちょっと驚いて訊いてしまった。何を調べるのか、勝手に調べられても困る。僕がそんなふうにしているのを気づいたか、マスターは続けていった。
「そう。調べるんだよ・・・君が交渉の基礎力を持っているか、いないかで、どこから教えるのかが変わるからな」
少し怖くなった。交渉力をチェックできる質問とは、どういうものなのだろうか。変な質問でないことを祈った。
「では、これからいくつかの質問をするよ」
「はい」僕は仕方なくそう答えた。
「シチュエーションは、客の担当者と業者だ。君が業者、相手がお客さん。高田さん、もし客から、『これから1週間で、注文していた1000個の商品に機能を追加して、10日前倒しで納入しろ』といわれたら、どうだろう?それも、追加費用もなしでだ」
「僕はシステム開発と企画しか経験ないので、それは分からないですね。
「いいんだ。経験がなくてもいい。自分が営業だと思って、想像てて答えて。自分の全ての経験を使って考えてみてよ」
マスターは真剣な表情になっている。こういうときは、こっちも真面目にこたえないと機嫌が悪くなることを、僕は経験から知っていた。
「まあ、そんなの無理ですね。苛めとしか、思えないですけど。コンプライアンスの問題で駄目だと思いますけど・・・」
「いいから、これは訓練だから、コンプライアンスの問題は無視して・・・どうリバースするかな?」
「そこまで言うなら・・・そうですね、具体的な条件の話にならないとなんともいえないですが、基本的には開発工数増なので、スケジュールは遅延しますから無理ですという言い方や、品質悪化リスク増ですから止めましょうよという言い方ですね。客も、それでは困るでしょうからね。そう簡単に、実現するのは難しいというしかないでしょうね」
「そうか、では、客が『そうですか、では、うちとは取引しませんいうことですね』と言ってきたら? 」
マスターは無理な論法を使う。
「それは駄目ですよ。取り扱ってほしいですよ」僕はそう答えた。
「なら、客から『どうにか実現してください。スケジュール遅延は駄目です。品質問題などありえません。われわれは、一番よいメーカーさんを選ぶだけですから。貴方ができないなら、それは貴方の問題ですので当方には関係ありません』と言われたら?
「それは厳しいな・・・『自分だけでは判断できないので、会社に戻って検討します』と言うしかないですね」
それを聞いて、マスターは意地が悪そうに言った。
「高田さん、それは危険だよ。そんな話、会社に戻っても『できない』と言われるだけだ。できないものを一旦持ち帰るのは考えものだな。要求した側は、帰ってじっくり検討してくれると思ってしまうものだ。そうすると、次回『できない』と言うと怒りを買う。人間の心理はそういうものだよ」
「難しいですね」
「つまり、相手の主張に対応できなければ負け。対応できれば勝てる可能性が高くなるということだよ。相手の言ってくることを予想する。そうすれば、対策話法が考えられる」
「それは、そうかも知れませんね」
「では、どうしたら、相手の主張を予想できるか、高田さんわかる?」
「いや、あまり考えたことがないので・・・」
「答えは簡単だよ。相手の立場で考えることだよ。上司には上司の立場、顧客には顧客の立場、部下には部下の言い分・・・そういうものを正しく理解しておくことだ。そうすれば、相手の考えていることが次第に分かるようになる」
マスターは気持ちよさそうに講釈しはじめた。こうなると、酒の進みが速い。
相手の立場で考える・・・僕にはこれは目から鱗だった。確かに、人の行動を予想するには、そういうことが必要なのかも知れない。僕がしばらく考えていたので、マスターは僕に声をかけた。
「まあ、交渉はこんなところから準備がいる。まず、準備、心構えがいるんだ。交渉は現場だけでするのではない。事前に会話がどうなっていくのかをできるだけ想定しなければならないんだ。これを僕は”会話のパス”と呼んでいる」
「会話のパス・・・ですか」
「そう、会話のパス。自分がこう言えば、相手はこう返す。それでは分が悪いから、違う言い方をしよう。こんな風に考えることが訓練になる。当然、会話のパスは多い方がいい。今、会話をした感じで言うと、高田さんの会話のパスは少ないんだ。それでは、常に回答に窮す。相手に追い込まれてしまうものだ」
「そうなんですか」
僕は少しムッとした。でも、表情には出さないように、質問した。
「でも、マスター、会話のパスどおりにならない場合は?」
「そんなときは、一回終わって出直す。作戦会議をやり直すことをすればいい・・・会話する中で、相手の考え、スタンスの情報が取得できるはずだから、一旦戻って、新たに会話のパスを作って、出直せばいい」
「なるほど」
僕は感心した。そういえば、確かに僕は園田や他の上司と話しをする際、あまり考えないでいく。自分の考えを相手にぶつけることしか行っていない。でも、いつも園田には、自分が想定していないことを言われて答えに窮してしまっている。
マスターが言った。
「高田さん、こういう地道なことが交渉の訓練になる。これを意識して学んでほしいんだ」
僕は交渉にも基本があるのかと思い、少し嬉しくなった。でも、これだけでは交渉の技術が分かったことにはならない。もっとたくさん教えてほしいと思った。
「では、高田さん、具体的に行こうか」
マスターがこう言うと、僕はすっかり学ぶ気持ちになっていることが分かった(次回に続く)
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