その日、僕が本郷の店にいくと、知らない客がいた。35歳くらいの男で、マスターとコソコソ話をしていた。
「いらっしゃい、こっちで」
僕に気づいたマスターは、カウンターの奥の席に座るように言い、オーダーを聞きにきた。
「アーリーのシングル、それと何か食べるもの」
マスターは厨房の奥に入ると、きゅうりのピクルスをもってきた。
「バルサミコで漬けてる」マスターは言った。
僕は漬物が好きだ。特に、京都の生シバ漬けが大好きである。でも、バルサミコ酢は甘いからちょっと苦手である。葡萄で出来ている酢なんだからしょうがないかも知れないが、やはり、僕は日本のコメ酢か穀物酢がいい。
「まあまあかな。でも、美味いです」僕がそう言うと、先からいた客がマスターに挨拶して帰っていった。
「知り合い?」
「まあ、昔の同僚というところかな」マスターは、客の素性をあまり言いたがらなかった。
僕はそれ以上聞くのをやめて、ピクルスを食べながらアーリーを飲んだ。
***
「なあ、高田さん、仕事はどう?」
「まあまあです」
「そうか・・・よし、今日も客は高田さんだけだから面白いメニューが出せるかも知れない」
「なんですか、お奨めは?」
「それは、高田さんが決めること」マスターは少し笑って楽しそうに言う。
「思いつかないな」
「なら、こうしよう。今日仕事でうまくいかなかったことは何か。それを今日の裏メニューにしよう」
「うまくいかなかった・・・そうですね、今僕は会社で上司のサポートスタッフを担当していて、大きなプロジェクトでマネジメントをしています。関係者に作業を依頼して、トレースして・・・でも、関係者が作業をしないで放置するのがね・・・」
「放置する?」
「そう、放置される・・・僕は権限もないし、信用もないみたいなので、僕が言ってもみんなは作業をしてくれない。あまりにも腹がたったから、今日は会議で文句を言ってきましたよ。そしたら、上司の園田から、酷く怒られた・・・」
「怒られたんだ」
「もう、馬鹿みたいでしょう。うちの園田。この前は、マスターの話で少し考えが変わった気がしたけど、やっぱりあの男は嫌な奴だと思う」
「そうか」
マスターはそう呟いて、厨房の奥にいった。そして、手に紙をもって帰ってきた。
「今日の裏メニューを出そう・・・ある男の話だ」
マスターは、そう言って話を始めたのだった。
***
あるところにA行という銀行があって、そこに草薙という名前の男がいた。彼はA行の企画部に中堅社員として勤務していたんだ。草薙は、A行内の業務効率化を推進するためのプロジェクトを担当していた。でも、まだ若かったから、サブチーフとして参加していたんだ。
草薙の役割は、A行内の各業務部門から手作業で行っている事務を洗い出し、システム化するために整理することだった。このプロジェクトは、企画部が経営戦略の基本システム構想として立案したものだったから、言い出した企画部としては、どうしても成功させることが必要だった。
もし、上手くいかなければ、企画部長は左遷だな。その部下も低く評価されることは免れない。だからこのプロジェクトは、企画部が死に物狂いでやるべき仕事だったんだ。だから、草薙には「関連業務部門を巻き込みながら必ず推進していくこと」という強い指示が出されていた。
こんな背景でスタートしたプロジェクトだったが、関係業務部門の反応は良好だった。今までシステム化が進んでいない部門は今回の話を歓迎した。積極的に情報化に協力してくれたんだ。企画部の上層部はこれを聞いてほっとした。予定通りに事務分析、情報化が進むように思ったからだ。
でも、販売部門の業績管理課だけは消極的で、分析はほとんど進まなかった。草薙は何度も業績管理課の担当者に「会社の決定なのだから、分析を進めてほしい」と働きかけたけど、先方の担当者の係長は冷たく言った。
「当方は十分効率化できているし、決算時期で忙しい」こんな感じで取り合ってくれなかった。
草薙は思った。
(業績管理課の情報化が遅れていることは周知の事実だ。効率的なわけはないし、情報化が不要というのは言い訳だ)
こんな感じで、会議でもだんだん雰囲気が悪くなってきた。草薙は業績管理課に感情的に話をするようになって、先方も草薙を敵視する雰囲気となった。もはや冷静な話し合いをする雰囲気ではなく、お互いに相手の話を無視するようになってしまった。
こんな状況で、プロジェクトが進むわけがない。これは、上層部にも知れることになってしまい、草薙は上司で企画課長の川村に呼ばれ、事情を説明することになった。
「草薙、業務分析が遅れているようだな。何があったんだ。」
「課長、業績管理ですよ。何を言っても進めようとしないんです。こちらは何度も指示しましたけどね。」
草薙はあきれたように言い放った。かなり腹を立てていたんだな。川村課長はそれに対して言った。
「それは問題だな。原因は何だ?」
「原因?それは説明したとおり、業績管理課が進めないこと・・・それが原因だと言っているではありませんか」
草薙がそういうと、課長の顔色が変わり、草薙に強く言った。「そうじゃない。それは事象だ。彼らが進めないのは事象で、真の原因ではない」
驚いている草薙に向かって、川村はさらに言った。
「君に聞いているのは、彼らが分析を進めない理由だ。これが分からなければこの問題は解決しない。」
草薙は、川村が何を言っているのかが、よく分からなかった。
「彼らがなぜ進めないかの理由?」
「そうだ。厳しい言い方だが、君の問題解決アプローチは正しくない。」
「どういう意味ですか?」
「君はまだ未熟だ。彼らが進めないからプロジェクトが進まない。彼らが悪く自分は悪くないというのは間違っている。これでは問題はいつまでたっても解決しない。」
これを聞いて、草薙は怒った。自分に責任があるというのか、自分は一生懸命やってるが、何故、遅れが自分の責任と言われるのかが、まったく分からなかったんだ。ただ、呆然とするしかなかった。
しばらくして、川村が静かに言った。
「草薙、君は今後プロジェクトマネージャーや組織の管理者になっていきたいのか?」
草薙はうなずき、それを見た川村はこう言った。
「だったら、他人を責めても問題は解決しないということを知っておいたほうがいい・・・問題を解決するために必要なことは自分の行動を変えることだ。プロジェクトマネージャーや組織の責任者は仕事を完成させ、成果を出す必要がある。だから、他人が原因で進まないというのは許されない。
何があっても他人に行動させることが必要なんだ。でも、他人の行動を変えることは難しい。だから、自分の行動を変えることで他人の行動を変えるべきだ。」
草薙は黙っていた・・・川村は続けた。
「今回、君は彼らに丁寧に頼むことをしたか?頭を下げたのか?彼らの仕事の忙しさ、立場などを理解したか?彼らの気持ち、企画部に対する過去の感情などを全て調べた上で、彼らの行動を促すために、君がどう行動するか考えたのか?」
「いえ、会社の決定なのだから、分析すべきという口調でした。彼らはお客さまではありません。同じ会社の人間です。そこまでする必要があると思いませんでした。」
「そこまでやるかならないかは個人の自由だ。しかし、仕事を成功させるというのは、そういうことまでやることだと自分は思ってるよ。」
草薙は、川村の話を聞いて、自分の甘さを痛感した。これ以降、草薙は他人の感情を考慮したマネージメントを意識するようになった。他人を変えるためには、自分を変えることが必要だと学んだんだな。
***
話を終えたマスターは、ジンを飲みながら言った。
「この話の草薙はな、先帰った奴の話なんだ。今は赤坂のコンサル会社で活躍しているよ。仕事でこっちにくると律儀に顔を出す。昔教えてやったことを今も感謝しているらしいんだ。」
マスターはもうかなり酔っ払った。こうなると、しゃべり放題だ。
「仕事を進めていくためには、他人の知恵を借りたり、他人に行動してもらうことが不可欠だ。でも、人がいつも積極的に協力してくれるとは限らない。・だから、他人が行動しないことを責める奴は駄目だ。他人に行動を促すために、自分を変えることを考えなくてはならない。
人にものを頼むときにはどのようにすべきか、もう分かると思う・・・これが今日のデンキプランだ。上手い依頼をする7の習慣を書いておいた。これでよく学ぶといい」
マスターは、そう言って手に持っていた紙を僕に渡した。
上手い依頼をする7の習慣
(1)普段から依頼先に「貸し」を作る。
(2)依頼内容はわかりやすく明確にする。
(3)「依頼する理由」は納得感を高く。
(4)できるだけ早くから依頼する。
(5)依頼先にメリットがあるように「お願い」する。
(6)依頼完了時には厚く御礼の言葉を言い、その後もずっと感謝する。
(7)依頼を受けてもらったら、何かできることを返す。 |
(1)普段から依頼先に「貸し」を作る。□□□
返報性の効果で、相手に「貸し」感覚を生じさせておくと、いざというときに役立つ。返報性とは、心理学上の用語で、人が何かをもらうと、その人はお返しをしないと気がすまなくなるという状態だ。
(2)依頼内容はわかりやすく明確にする。□□□
何をやるのか不明確な作業依頼は誰も受けたがらない。懇切丁寧で分かりやすい依頼書を書き、手間をかけて依頼すべきだ。
(3)「依頼する理由」は納得感を高く。□□□
依頼先には、「なぜ、自分(たち)が依頼されて動くのか?」ということを納得できる理由がなければならない。納得感がなかったり、弱かったりすれば、人は行動しないものだ。
(4)できるだけ早くから依頼する。□□□
急な依頼は相手に「非常識」という強い不満を持たれるから避けるべきである。できるだけ早めに依頼をして、作業時間を十分とることが、相手を怒らせないコツだ。
(5)依頼先にメリットがあるように「お願い」する。□□□
基本的に、依頼先には何かメリットがあるように考えて「お願い」したい。メリットも何もなければ誰も喜んで依頼を受けないものだ。たとえば、感謝の気持ちを依頼先の上司に伝えて、依頼先の人を褒めるなど、アピールしてあげるような配慮も充分メリットになる。
(6)依頼完了時には厚く御礼の言葉を言い、その後もずっと感謝する。□□□
人は、御礼の一つで気分をよくしたり、害したりするものだ。何かをしてもらったら、かならず御礼をしよう。タイミングも大事だ。できるだけ早めにしてくよう。さらに、感謝の気持ちを忘れなければ、依頼先も、その後にまた依頼を受けてくれることになる。
(7)依頼を受けてもらったら、何かできることを返す。□□□
いつもやってもらうだけでは駄目だ。何かお返しできることを探し、「借り」ばかりを作らないようにしよう。これも返報性の効果である。 |
***
「なあ、高田さん、君ならどう考えるか。プロジェクトの進捗が遅れている状況で、その遅延原因が「関係部門の担当者の動きが悪い。」という報告を部下から受けた場合、マネージャーとしてはどのような対策を実施するのがよいであろうか?」
「はい・・・」
僕は答えが分からなかった。
「僕が見聞きしてきた事例では、多くのマネージャーは関係部門に問題があると考え、先方のマネージャーに一方的に、なぜ行動をしないのか、行動してくれないと困るなどと不満を言う。そして、先方の部門とのコンフリクトが発生し、収拾がつかない事態に発展していく。
売り言葉に買い言葉で攻撃された組織は、何かと理由を作り、ますます協力を拒むようになる。結果、プロジェクトはさらに遅れていく・・・残念ながら、他人を責めれば、相手も自分を責めるという人間の基本的行動特性を理解していないんだよ。それじゃ、駄目だな。
優秀なマネージャーには共通の特徴がある。そういう人は他人が行動しないのは自分に問題があると考えている。他人の行動を変えるには、自分の行動をどう変えたらよいかを考えたマネジメントを行っている。なあ、わかるよな、高田さん?」
僕には耳が痛かった・・・・だから、ずっと黙っていた・・・でも明日からの仕事では気持ちを少し変えるべきかなとも思った。(次回へ続く)
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