*1*
階段を下って、バーの入り口のドアを開けると先客がいて、その客はマスターと何やら話をしていた・・・僕はカウンター越しにゆっくり歩いて、客と席2つ分離れた席に座ることにした。それから余市のロックと、小豆島のオリーブを注文した。
マスターは、酒とオリーブを持ってくると、客を僕に紹介した・・・その客は30歳、名前は真田といった。実はマスターとは、元の上司と部下の関係で、今は営業の仕事をしているということだった。
そして、僕は真田氏と少し会話をした・・・その中で彼は頻繁にこのバーに来ていること、マスターに仕事のアドバイスをしてもらっていることを知った。それから、真田氏とマスターは、先からの話しの再開をした。僕は当然、2人の話しには入っていないから、離れた席で一人で飲むことにした。
とは言うものの、店には3人だけだから、2人の話は全部聞こえてしまう。5分くらい聞いていると、2人の会話が理解できてきた・・・今日の相談は、「部下ができたが、上手くいかない。」ということらしい。
彼くらいの歳なら、誰でも部下くらいはいるだろうし、特に変わった話ではないと思うのだが、彼にとっては、それがとても酷い話なのらしい。部下は何度言っても仕事を覚えないし、教える自分は、時間をとられて面倒だからというのが彼の不満の主旨である。
それなら、上司に相談すればよいのに、と思うが、上司は上司で酷いという。「君がしっかりしろ」、「教え方が悪い」、「リーダーシップがない」と言われて辛いという。だから、マスターに相談しにきたということらしい。
マスターは話を「うんうん」聞いているが、今日は酒を飲んでいないらしく、目元がしっかりしている感じだった。この人だって、いつも飲んでいるばかりじゃ具合も悪いのだろうと思った。
*2*
「いつもながら、お前の話しはよく分からないな、相変わらず勉強不足だ・・・もっと勉強しろ、本を読め。」
マスターが突然話を始めた。地声が大きいから、話すことが全体に響いている。だから、聞くなと言っても聞こえてしまう。
「成宮さん、声大きいですよ。本ならたくさん読んでますよ」 真田氏は不満げに反論している。
「どうせ、テクニックを簡単に解説した本ばかりを表面的に読んでるだけだろ。いいか、真田、本はどう読むか、お前理解できているか?」
「・・・さあ、理解できてると思いますけど」
真田氏はそう言って、少しビクつきながら酒を飲んだ。マスターがさらに大きな声で言う。
「本はな、自分の頭で考えたことが正しいかどうかのチェックに使うんだ。本をただ読んでも3日後には忘れる。でも、自分の頭で考えて、それが読んだ本と一致していれば、自分の考えが固くなっていく感覚が分かる。
反対に、自分の考えが否定されていれば、自分の考えを変えることも必要になる。本はそう使うべきだと、俺は思っている。」
「分かりました」と真田氏が低い声で言う・・・だんだん彼は元気がなくなってきたようである。
僕は、マスターが会社にいたときも、こんな関係だったのだと思って、真田氏に同情した。こんな五月蝿い上司は嫌だ。うちの園田も相当嫌な奴だが、マスターも相当嫌われ者だったかも知れないと思った。
「お前が会社に入ってから、すぐに俺は会社を辞めたから、お前にはほとんど仕事を教えていなかった。
あの会社には、ロクな上司がいないから、お前はいつまでも成長させてもらえない・・・お前は本当にかわいそうだ・・・・俺のせいだったかも知れないが、お前の会社の連中の教え方能力が低いのが主な原因だと思うぞ・・・あいつら教えるということがまったく分かっていない」
元会社の同僚に対してだと思うが、酷い言いようである。マスターの、会社時代の評判が分かるというものだ。こんな人の上司は、大変だろうし、部下も大変だろう。
酒癖は悪いし、態度も悪い。声はデカイし、人を馬鹿にしたような言い方をするし。まあ、これが僕の上司でなくてよかったと思った。
「真田、うまく教えるために何が必要かを考えてみろ。普段、多くの人たちは、職場や家庭でいろいろなことを教えている。「販売商品の知識を教える」、「仕事の進め方を教える」、「文章の書き方を教える」という具合だ。
そして、教えている場面は、年間数回の研修のような正式な場よりもむしろ、職場の日常的な会話、ミーティングの中での方が多いのではないか。
だれでも、正式な研修は、事前準備を入念にする。それは、教えることを目的としているからだ。そこでは受講生のレベルや何を教えるのかを十分に考え、最適な教育方法を考え、教育効果を計る方法を考える。」
それは、そうだと僕は思った。研修なら、誰でも念入りにチェックする。あたりまえだ。マスターは続けた。
「でもな、職場の日常会話で教える場合、入念な準備をしているかは疑問だよ。多くの場合、準備なく、場当たり的に、上司や先輩が、知っていること(知識)や経験(ノウハウ)を話すだけだ。
つまり、年間数回しかない研修は準備しても、多くの時間を占める日常的な教育は準備できていないか、準備が不足している。ここに、『教えること』」の難しい問題と、成功のカギがある。
いいか、よく覚えておけよ。ここにポイントがあるんだよ・・・仕事を成功させるためには、目的を明確にして、どうしたら上手くいくかを考える必要があるけれども、日常的に『教える』という行為には、それが欠けている。
上手く『教える』ために必要なことは、『教えることとはどういうことか、なぜ教えるのか、教えた結果、何が変わっていなければならないか』をよく考え、教える人が目標(ゴール)イメージを強く持つことなんだ」
マスターはながながと、こんな話をしたのだった。でも・・・分かるようで、よく分からない・・・僕はそう思った。(次回に続く)
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