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「キャリア・バー」 第1回・・・「最悪な上司」

 *1*

 そのバーは丸の内線本郷3丁目の駅を降りて近くの大きな交差点を日本橋方面に3分くらい歩いたところの地下にある。

 入り口が多少分かりにくいので、僕は大きなオークの樽を目印にしている・・・オークとは樫のことだ。この店はウイスキーを寝かせる樽を看板がわりに置いている。

 確か、店の名前はウイスキーという意味の外国語のような名前だったと思う。最初に店に入ったとき、名前の由来を説明してもらったように思うがしっかりとは覚えていない。僕はこの店を「キャリア・バー」と呼ぶから本当の名前を知らなくてもあまり困らない。

 なぜ、「キャリア・バー」と呼ぶかというと、僕のキャリアアップに大きく関係するからだ。

 この店は酒を売るバーだけど、変わったマスターがいて、店で仕事のスキルアップ、キャリアアップに関係することを教えてくれたり、気付かせてくれる。マスターはかなり博識で、僕が困っていること、聞きたいことを教えてくれる。

 マスターの口からは、経済、歴史、科学、文化、スポーツに関する薀蓄があふれてくる。聞いている僕は、それは凄い能力だと思う。僕が何か質問すると、すぐ答えになるものが口から出てくる感じなのだ。

それは、僕に対してだけじゃない。

 店はいつもは空いていて、僕が店にいくときにはお客は極端に少ないのだけれど、たまに客がいるとマスターと必ず何か議論している。そんなときはカウンター席に座り横で聞かせてもらうが、どの業種の客でも、どんな話にでもマスターは話しをあわせて対応できるから感心してしまう。

 マスターは昔、大きなコンサルティング会社でビジネスプランニングや、プロジェクトマネジメント、チームビルディングや人材教育をやっていた。

 でも何か理由があって、会社と喧嘩して辞めたという。本人の話では会社ではいろいろな仕事で成果を出したとのことだが本当かどうか分からない。なぜなら素面の時に聞いたことがないからだ。

 マスターは酒を客に出す商売のくせに、自分で酒をかなり飲んでしまう。聞くと「自分で買ってきた酒だから店とは別管理」と言う。僕には管理はどうでもよいが、酒の入る前と後で人格が異なってしまうのはどうかと思う。

 店のオープンは夜8時。そのころのマスターはしっかりした態度で話す内容も論理的だ。でも、11時を過ぎて客がいなくなると飲みだしてしまう。話をしながら飲む。飲むほどに饒舌になる。飲む前には論理的だったものが少しあやしくなる。

 客が入ればあからさまに飲むことはないのだけれど、本郷は学生街でサラリーマンが極端に少ない。だから、ある程度の時間になると店にくる客がいなくなる。すると飲みだしてひどく酔っ払ってしまう。

 こうなると、マスターは非常によくしゃべり、情熱的、説教的になって昔のことを話すようになる。

 マスターが上司と仕事上でよく対立していたこと、結果的に会社を辞めたことなどが出てくる。ただし、そんなときは相当酔っ払って支離滅裂だったりするので本当はどうだったのかはよく分からない。

-マスターは上司と喧嘩して会社を辞めたらしい-

 それ以上のことは分からないのである。

*2*

 マスターの出会いは、僕が会社で上司にひどいことを言われ、「もう出社できないと落ち込んだ」ときだった。そのころ僕は大きな壁にぶつかっていた。

 入社してから、優しい上司に恵まれて、会社生活の10年を順調に過ごしていた。会社はITインテグレータで、企業のシステム化を支援する業種。最初の10年はシステム開発で、これは、非常に楽しく仕事ができた。

 たくさんシステム技術の勉強もしたしプログラミングの勉強もした。そのかいがあって、「仕事ができる」と自分で思っていたし、周囲も思ってくれていたと思う。

「君の評価は高い」

こう言われていたので、安心していたし気持ちもよかった。

 でも、その後に新しい仕事に変わるために転勤した。仕事は営業と企画、プロジェクトマネジメントになった。これが、僕には辛かった。

 システム開発のときの仕事は、あまり人で苦労することはなかった。まだ若かったから、面倒なことは優しい上司や先輩がやってくれていたのだと思う・・・僕は、人と難しい調整をするようなことはしたことがなかったから、人は苦手だった。

 しかし、新しい仕事は、人に対する能力の高さを必要とした。それまではコンピュータ相手。新しい仕事は人相手。多くが違うようになった。

 住む場所も変わった。勤務地も変わった。仲のよかった、優しい上司や先輩も新しい職場にはいなくなってしまった。

 でも、本当のところは、僕は自信があった。新しい職場でも絶対仕事ができると思ったし、周囲の人間はたいしたことがないだろうと思っていた。

 前の職場で一生懸命仕事をしてきた。資格もとったし、本もたくさん読んだ。何よりも、多くのシステム設計を成功させ、お客を喜ばせてきた。

 システムインテグレータは、やはり「開発」が肝である。だから、企画でも営業でも一番になれると思う。そう思っていたのだった。本当にそう感じていた。

 でも、現実は全く違う形になった。

 新しい職場で上司から「使い物にならない」、「仕事が遅い」、「考えがない」と言われた。

 最初は、嘘だと思った。新しい上司がからかっているんではないかと思った。でも、1週間たっても、2週間たっても、「ごめん、これは君への歓迎の手痛い挨拶だったんだ」というネタばらしにならなかった。

 とにかく仕事が分からない。新しい仕事相手の言うことがまったく分からない・・・マーケティング、市場、客のニーズみたいなことは今まで意識したことがないから分かるわけがないのである。

 上司に仕事の進み具合を詰められると「できる限り頑張っている」と答えるしかないのだけど、それでは許してもらえない・・・上司は「結果を出せ」と言う。でも、何が結果なのかは僕には分からない。

 上司はとにかくうるさく言うから嫌だった。

 文書を書けば、「何を言いたいのが分からない」と言われる。悔しいので分かるように詳細に書けば「長すぎて論点が見えない」という。短く書けば「足りない」、「また長く書けば」、「一度言われたことは二度といわせるな」と怒る。

 もう、何がなんだか分からなくなった。こんなことを3週間も続けると人間やはり駄目になる。人の自信が構築されるには時間がかかるが、それが崩れるのはあっという間だ。

 「駄目な人間かもしれない」

 それを受け入れた後、僕は急激におかしくなった。夜には寝汗をかいて起きてしまう。何度寝てもすぐ起きてしまう。喉が渇く。急に涙が出る。食事しても味がしない。急に体重が減り出した。

 僕は寿司が大好きだった。休みの日には近くの回転寿司にいくのが楽しみだった。でも、味がしなくなってしまった。好物のマグロもサーモンも、アジもイワシもコハダも何か紙を食べているようだった。それは寿司だけではなかったようで、それから何を食べても味がしないような気がした。

 だんだん、会社が非常に遠く思えるようになってきた。電車に乗っても、会社に着かなければいいなと思うようになってきたころ、僕はマスターと出会う日を迎えたのだった。

*3*

「お前は本当に子供だな。仕事は考えて段取りを十分作ってからはじめて進めるものだ。それが何故分からない。もういい。お前にはまだ無理だ。永遠に無理かもしれないけどな。」

 園田の大きく高い声がフロアに響いた瞬間、周囲の人が僕と園田をチラリと見た。でも、次の瞬間にはもう自分の仕事に戻っているので安心した。どうせ、「またか」と思っているのだろう。あまり見られるとカッコ悪いからそのほうがよい。怒鳴られた僕は下を見て黙っていた。

 「何かいうことがあるんじゃないのか」

 上司の園田が嫌味っぽく言った。

 「私的には、考えたつもりなんですが・・・でも、どうしても園田さんの言っていることが理解できなくて・・・」

 僕の言葉はたどたどしくなっている。

 「もっと自信家で優秀だと聞いていたけどな・・・基本が全然できていないんだな。それじゃ駄目だ。なあ、高田」

 「園田さんのように仕事ができればよいのですけど・・・」

 「本当にそう思っているわけじゃないだろ?」

 いつもながら腹が立つと僕は思った。上司の園田は7つ上で役職は課長補佐、僕は主任だから役職としては2つ下。役職で2つ下では全く逆らえないのが辛いところである。

 園田は入社からずっと営業と企画、プロジェクトマネジメントの仕事をしている。そこが、入社から10年間開発の仕事をしてきた僕とは違う。僕はいつも嫌味なことばかり言う園田が嫌いだ。

 そもそも園田はこの仕事が長いのだから、知識も経験も人脈もある。だから仕事ができて当たり前だ。一方の自分は、この仕事が始めてで何もわからない。自分で好きで転勤してきたわけじゃないのに、これで詰められるのは不条理だ。

 新しい仕事を覚えるには、誰だって時間がかかる。上手く動けなくてあたりまえなのに、園田は自分を詰めるばかりで何も教えてくれない。だから、園田を嫌な上司だと思う。

 一方で、自分は駄目かも知れないと思う気持ちも強くなってきた。何とか頑張ってきたがもう限界かも知れないと思うようになっている。

 昨夜も1時間毎に起きてしまい、今日も気分が優れない。寝不足のはずなのに眠くない。しかし、目の周りに痛みがある。これまで経験したことのない痛みだ。頭にも変な痛みがあるし食欲もない。体重も減った。

 ***

 今日は園田が先に帰ったので、インターネットで症状を調べてみる。

「軽度うつ、適応障害」

 こんなところの症状と一致していると思った。。最近は、若い人や中堅社員に増えていること、治療には時間がかかることが多くのページに書いてあった。

 これを見て僕は少し落ち着いた。

「もう、会社にも来れなくなるかも知れないな」

 そう思うと急に気分がとても軽くなった。多くの人が同じようになっていて、自分だけに問題があるわけでないことが気持ちを楽にした。今日は久しぶりに大学時代の友人と酒が飲めると思った。

 実は、今日の夜、本郷の飲み屋で大学の仲のよかったヤツに誘われていたのだが、気持ち的に行く気にはなれなかった。でも、今は少し落ち着いている。少し気晴らしもしたいと思い、会おうという気になった。

 時計を見ると8時だった。僕は急いで帰り支度をして、銀座から丸の内線に乗った。(次回に続く)


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